スマートシニア・ビジネスレビュー 200384 Vol. 32

ブラームスCD_2演奏家や歌手、作家などでは、通常最も売れた作品が、その人の代表作とされる。しかし、その人の魅力が最も自然な形で表現されているのは、意外に第二作目であることが多いように思う。

 

たとえば、日本のフォーク・ポップス(?)歌手の大家である井上陽水の出世作は、ミリオンセラーになった「氷の世界」である。この作品でトップスターの座を不動にしたと共に、彼のファン層は一部のフォーク好きから一般の人へと広がった。

 

しかし、彼の魅力が最も結晶化されているのは、実はこの前にリリースした「センチメンタル」だ。このレコードは、古くからの陽水ファン以外にはあまりなじみがないかもしれない。「東へ西へ」という曲が有名になった以外、他は一般にはあまり知られていないからだ。

 

そんな幻の名盤の中の最高傑作は「能古島の片想い」という曲だ。これは陽水の故郷の島での初恋の思い出を曲にしたもの。歌詞とメロディーとの「調和」とはこういうことだというお手本のような出来栄え。そして、その歌声は透明感があり、高い音程まで伸び渡っている。これに比べると後年の歌声は、まるで「おじさん技」での歌い回しに聴こえる。

 

陽水以外でも、例えば、松任谷由実なら荒井由実時代の「ミスリム」、因幡晃なら「暮色」が出色の出来だ。あまり好きではないオフコースですら「Song is Love」という作品は、その後に比べて気張った作り物らしさがなく、好感が持てた。

 

これらの共通点は、全て第二作目だということだ。なぜ、第二作目には魅力的な作品が多いのか。その理由は二つあると思う。

 

理由その一。第二作目は、出世作で脚光を浴びる前の段階の作品だということ。アーティストにとって余計な雑音が少なく、時間や手間をそれなりにかけ、自分で納得する作品を仕上げることができる。逆に、一度メガヒットをかっ飛ばすと、本来の作品つくり以外に時間をとられるようになる。特に、人気が出て周囲にちやほやされると精神面での緊張感が失われ、駄目になっていく例は非常に多い。先に挙げた因幡晃などはその典型だった。

 

一方、井上陽水や松任谷由実のように出世作を出してからも継続的に人気を維持する人もいる。しかし、これらの人たちは初期の頃と異なる魅力で勝負をしているだけだ。いわば売れる土俵を変えることで、キャリアを継続しているに過ぎない。

 

理由その二。第二作の前のデビュー作の出来栄えに追い風を受けやすいこと。井上陽水なら「断絶」、松任谷由実なら「ひこうき雲」といった鮮烈なデビュー作がある。第二作は当然、このデビュー作に大きな影響をうける。したがって、これがいかにして世に出てきたのかが重要だ。

 

陽水の場合、大学の歯学部受験に3度失敗し、失意の中で自分らしさを求めた結果が当時あまり一般的ではないフォーク歌手への道だった。「人生が二度あれば」の最後の箇所で、後が継げなくて苦労をかけた父を思い、嗚咽する姿は、無条件に聴く者の心を打った。「限りない欲望」「傘がない」など、どれ一つとっても気持ちのこもっている作品ばかりだった。

 

このデビュー作でそれまでの長いトンネルを乗り越えた後、生まれたのが第二作の「センチメンタル」だった。デビュー作での悲壮な切迫感は、第二作ではより自由で深い叙情感へと変わった。

 

ブラームスが「第一交響曲」の作曲を始めたのは22歳だった。しかし、実際に完成したのは、それから21年後の43歳。「第一交響曲」は、別名「第十交響曲」と呼ばれる。これは「ベートーベンの"第九"を超えた作品」という意味だ。

 

実はブラームスは、ベートーベンの"第九"を超えるような作品でなければ世に出してはいけないと思っていた。そして、その実現までに21年かかった。しかし、次の「第二交響曲」は、「第一交響曲」完成の一ヶ月後にできあがる。ベートーベンの呪縛から脱出し、長いトンネルを乗り越えた後の作品は、イタリアで作曲されたこともあり、明るくて開放的な曲になった。

 

二作目に魅力があるのには、ちゃんと理由がある。魅力のある二作目は、それ単独で生まれることは決してない。その裏には、鉄の足かせのついた長いトンネルの時代が必ずある。

 

このようにアーティストの魅力が結晶化されている二作目は、一般には人目に触れにくく、注文しても廃盤になっていたり、在庫切れになっていたりすることが多い。そこで、これはよい、と思う二作目のリストをネットで集め、一定規模以上の数が集まったら、委託生産するというサービスがあるとよいと思う。曲を推薦する人は、その曲への想いを熱く語れるスタイルにするのがよい。

 

中高年世代だけでなく、若い世代にもそれなりの需要があると思うのだが、いかがだろうか。