10月10日 シルバー産業新聞 連載「半歩先の団塊・シニアビジネス」第55回
「もうすぐこの家を引っ越さなければ。ここは税金が高く、生活費も高くて、とてもじゃないけど老後はやっていけないよ」
こう語るのはコネティカット州ウェストポートに住むジョージ・トンプソンさん(65)。トンプソンさんは、1946年生まれ。米国のベビーブーマー世代の最年長者だ。ウェストポートはニューヨークから電車で1時間の郊外にある高級住宅街。
彼らが引っ越してきた30年前はごく普通の住宅地だった。しかし、その後ニューヨークのベッドタウンとして、多くの富裕層が住む街に変わったのに伴い、住民税や市税、固定資産税などが高騰し、以前から住んでいる旧市民には住みづらい場所となってきたのだ。
「多くの退職者が他の州からここにやってくるけど、僕らはここでは暮らせないね。景気が悪くなって仕事がなくなったんだ」
ため息をつきながら重い口を開いてくれたのは、フロリダ州ジャクソンビルに住むデイビッド・ブランコさん(64)。ブランコさんは、退職者が老後を過ごすリタイアメント・コミュニティの施設マネジャーを務めていたが、あと2カ月で会社との契約が切れる。
一年中気候が温暖なフロリダ州は退職後に老後を過ごす場所として米国人の定番になっている。ところが、近年様子が変わってきている。以前は海沿いの瀟洒なリタイアメント・コミュニティに裕福な高齢者が大勢住んでいたのが、リーマンショック後、多くの空室が目立つようになった。
米国人は金融資産を株や投資信託で保有する割合が大きく、株価の下落で保有の金融資産が軒並み目減りし、フロリダの高級リタイアメント・コミュニティでは老後の生活資金が賄えなくなったのだ。
いま、米国ではベビーブーマーの「大移動」が始まりつつある。移動には三つのタイプがある。第一のタイプは、今住んでいるところよりも税金や生活費の安いところへの移動。第二のタイプは、広大なヤード(芝生の庭)のある大きな家から、もっと小さな家への移動。いわゆるダウンサイジングだ。
米国は日本と異なり、定年がない。とはいえ、サラリーマンでは概ね60歳から65歳までの間に退職する人が多い。年金は支給されるものの、一部企業を除けば、年金収入のみで悠々自適に暮らせる人はそれほどいない。
また、国民皆保険制度がない米国では、65歳以上向けのメディケアと低所得者向けのメディケイドを除き、公的医療保険はない。このため、自費で民間の保険に加入するが、介護保険など高齢者向けは金額も高い。平均寿命は伸び続け、税金や医療・介護コストが増えているのに、収入は増える見込みがほとんどない。こうした事情を背景に、コストを下げても、生活の質をそれほど下げなくてよい場所に移動し始めているのだ。
さらに、第三のタイプは、世帯ごとに独立して居を構えていたのを親子二世帯あるいは親子孫三世帯など「多世代世帯」で同居する家への移動である。
近年の調査によれば、今後10年間に米国の世帯の3分の1が多世代世帯になるという。米国は大都市を除けば、一般に土地は広く、価格も安い。独立志向が強く、世代ごとに別々に住む習慣のある米国人が、なぜ多世代世帯に向かうのか。それは若い世代の経済的理由である。
都市部に比べて相対的に安い地方でも、若い世代が住宅を買えなくなるというのだ。その理由は仕事が減っているためだ。農業人口の減少、産業の空洞化、景気の低迷で地方都市では若者の就業機会が減っているのだ。
この話はまさに日本でも起こっていることで他人事に聞こえない。一方で多世代世帯が増えると言うことは、ばらばらになっていた核家族が、かつての大家族に回帰することを意味する。
日本ほど急速ではないが、米国でも高齢化は進んでいる。高齢世代の介護の必要性は当然高まっていく。しかし、大家族なら家族同士が支え合いやすくなる。大家族への回帰によって家族どうしの絆はむしろ強まるだろう。また、家族が多い分、一人あたりの介護負担は少なくなる。ポジティブに見れば良い面も多いといえる。
米国ベビーブーマーの大移動に伴い何が起きるのか。私達日本人も注意深く見守る必要があるだろう。